八垂別(はったりべつ)とは
この藻南商店街の街区のあたりを昔は「八垂別」(はったりべつ)と呼んでいましたが、現在ではその名称を見かけることは滅多にございません。「八垂別の滝」「八垂別墓地」くらいでしょうか?そんな響きさえ不思議なパワーワードとも言える「ハッタリベツ」の由来について八垂別の語り部で藻南商店街理事長の岸信行が地域の小中学校などで定期的に講演を行い地元の方々にこの地域の歴史を深く知ってもらおうと継続的に活動を行っております。その中で、過去平成19年5月に冊子発行の「わが街、南区の歴史探検。八垂別」(岸信行著)より今まで紙面でしか読むことができなかった全50遍をデジタルで読めるようになりました。ぜひ、ご覧ください。
※こちら平成19年当時の内容をそのまま掲載しておりますため、各種名称や数値など現在と異なる部分がございますことご了承ください。
第一遍 【おいらん淵】
現在の藻南公園付近を、昔は「おいらん淵」と言っていました。開拓当時、藻南公園付近で、豊平川は、対岸の軟石山にぶつかり、大きく曲がって流れていました。その結果、そこには、渦を巻いた底無しのような淵が出来あがりました。
開拓時、この淵に身を投じて死んだ遊女(おいらん)がおり、それ以来、誰言うとなく「おいらん淵」と呼ばれています。この「おいらん淵」の由来には、諸説がありますが、以前、「おいらん淵」のクイズを販売所で出した所、「私のおばあちゃんかおじいちゃんが、藻南公園付近を歩いている遊女を見ていて、次の日、遊女が豊平川で死んだと言う話を聞いた」と言う読者が現れ、この由来には、真実味があります。豊平川は今では、水量も減っていますが、昔は水量も多く、特に、「おいらん淵」付近は深さ10数メートルあったと言われています。ですから、水泳に自信のある人でも毎年のように水死事故があるので、これを悼み、宝流寺佛教婦人会が中心となって地蔵尊を建立冥福を祈願していました。この「おいらん淵」も昭和23年9月に藻南公園と命名され、現在の自然公園として整備されています。今回から、この地域の「雁史探検」を始めますので、宜しくお願いします。
第二遍 【藻南公園<その1>】
「おいらん淵」から昭和23年9月に命名された藻南公園は、現在、自然公園として整備されていますが、私が、子供の時は、今とは随分様子が違っています。当時は、本当に人の手が入っていない自然そのものと言った公園でした。
私は、よく、新聞配達が終わってから、クワガタ取りに行っていました。また、セミ取りはもちろん、ザリガニ、サンショウウオなども、当時の藻南公園では取る事が出来ました。まさに、自然公園そのものでした。変わった所では、アリ地獄(ウスバカゲロウの幼虫の巣)などがあったのです。植物では、やまぶどう、コクワ、野イチゴなどあり、よく食べたものです。
しかし、公園がだんだん整備される様になると、その数は減少して行きました。今は、どうなっているのでしょうか?。できることならば、昔の藻南公園に戻して、子供たちが自然と共に生活できる公園作りを、ぜひ、考えてほしいと思います。
ところで、藻南公園付近に温泉が3つほどあったのはご存知ですか?。
また、現在の藻南交番の真後(現在は遊具公園)にお店があったのは知っていましたか?。詳しくは、次号にて、書いて行きたいと思います。
第三遍 【藻南公園<その2>】
前号で述べた通り、藻南公園付近には温泉が3つありました。
1つ日は、「グランド藤」と言う名で営業していました。その場所は、今は更地になっていますが、つい最近まで、勤医協の保養所になっていた所です。ちなみに、そのとなりにマンションがありますが、私が中学生の頃は、プールがあり、よく遊びに行ったものでした。
2つ目は、そのマンションの向い、今の照明付きの野球場の外野のセンター付近に、「名取温泉」と言う名で営業していました。色々な人に聞いたのですが、昭和30年から48年頃まで営業していたそうです。(詳しくはわからない)私の印象では、私が中学生の頃までは、あったような気がします。確か、その付近でジンギスカンを食べるテーブルがありました。(ガーデン風だった)
3つ日は、「プリンスホテル」と言う名で営業していました。場所は、現在の日産自動車販売の場所です。このホテル、プリンス←モンアミ←もなみヘルスランド、と言った具合にいろいろ名前が変わりました。なぜ最初にプリンスからモンアミに変えたかと言うと、お分かりの通り、国土計画系列の「札幌プリンスホテル」が進出することが決まってからです。
また、交番の裏の売店は、昭和25年S35年までは、雪印が営業していました。その後、山本さんという方が引き継ぎましたが、10年程で辞めたそうです。今まで書いたことは、昔のことなので、皆、記憶が曖昧で、年表が違うかもしれません。「きちんとした記録があれば」と思います。
第四遍 【三十三観音像】
昭和23、4年頃、藻南公園に三十三観音像が建立されたと藻岩郷土史に書いてあります。郷土史によると、「発起人は、梅津藤吉氏、石工は、阿部彦衛門氏。発起人梅津藤吉氏は当時市会議員をしており、また、非常に侶仰心の篤い人であった。梅津氏は、観音経の信徒の協賛を得て、藻南公園に三十三観音像を安置しました。一番観音像は、川沿l4条l丁目、二番観音像は、藻南橋を渡らず右手(現駐車場)、3番、4番観音像からは、藻南橋を渡って、左手においらん淵を見ながら、細い道が小高い山頂へと延びる両側に順を追って安置された」と書いてあります。
しかし、今現在、これが何処にあったのか、あまり定かではありません。事実、観音像そのものが、見当たりません。私の記憶でも、あったような気がしますが、どうもはっきりしません。確かに、藻南橋を渡って、テニスコートと野球場の間に真駒内の青少年会館に抜ける山道があるのですが、観音像はありません。
もしかすると、昔あったのが、山道のルートが変わっていて、見つける事ができないかもしれません。また、郷土史にも書いてありましたが、観音像に不敬を働く若者によって壊されたかもしれません。もしそうであれば、残念でなりません。
これから、だんだん気候も良くなります。お時間のある方は、「三十三観音像探索の旅」などいかがですか?この地域の思わぬ発見があるかもしれません。
第五遍 【八垂別墓地】
国道230号線から南沢通りに入り、第一紅葉橋を渡って、南ヶ丘中学校へ行く途中の右側のこんもりした森に、八垂別墓地がひっそりとあります。以前クイズにも書いた通り、この付近一帯を昔は「八垂別」と呼んでいました。今現在、この地名が残っているのは、「八垂別墓地」と中ノ沢にある「八垂別の滝」ぐらいです。
さて、八垂別墓地は、明治43年8月山鼻村入植者のために設置され、用地千坪、現在の場所に作られました。昭和17年4月札幌市営となり、現在に至っています。墓碑の数は昔は、140基ほどあり、仮墓標が多かったのですが、現在は、約80基ほどで、ほとんど石碑に改められました。ちなみに、開拓時代は、土葬にしていたそうです。子供の頃、この墓地に行ったことがありますが、確かに、夏の昼間でもひんやりしていて、怖い感じがします。しかし、ここに眠っている開拓者達がいなければ、この地域の発展もありませんでした。安らかに眠る事を願っていますが、なんと、昭和55年10月に何者かによって、墓地が荒らされ、墓石が壊される事件がありました。さらに、痴漢が出るようになるなど、到底、静かに眠る所ではなくなってしまいました。これには、地元住民も頭を悩まし、関係方面に働きかけて、その付近の街灯設置・防犯活動などをして、現在では、ほとんど見られなくなりました。きっと、開拓者の霊も喜んでいることでしょう。合掌。
第六遍 【ラベンダー発祥の地・南沢】
「ラベンダーと言えば、富良野」と思われているが、北海道のラベンダー発祥の地は「南沢」である事は、あまり知られていません。「南区開拓夜話」によると、昭和12年に、曽田政治氏がラベンダーの種子5キロをフランスより輸入して、北見、札幌、長野、岡山の各地に試作したが、生育状況が札幌が良好という結果を得た。その結果を韮に、昭和15年、南沢麻田農園(当時は麻田正吉氏、現麻田志信氏)の土地16ヘクタールの委譲を受け、北斜面一帯にラベンダー耕作を始めた。ラベンダーオイルを取る為です。これには、南沢の住民の協力も不可欠であったと藻岩郷土史にも書いてあります。そんな努力が実り、昭和17年日本で初めて「ラベンダーオイル」の抽出に成功しました、。しかし、時代は戦時下に入り食糧増産の国策上、止む無く中止し、品種保存として農場の片隅にひっそりと栽培されていました。
戦後、昭和23年からラベンダーオイルの生産が本格化、南沢の産業振興に大きく貢献し、さらに、ハマナス、バラなどの栽培も始まり、活気にあふれる時代がありましたが、昭和40年頃から外国からの安い香料が輸入され、だんだんと減少し、昭和47年農場の閉鎖と共にラベンダー栽培も終わりを岩げました。
しかし、今、岸販売所は地元の住民と共に「ラベンダー栽培」による町づくりを全面的に応援しています。ぜひ、皆様のご協力をよろしくお願い致します。
第七遍 【硬石山】
硬石山は、私共の配達地域の一番南に位置しています。標高は37lmです。この硬石山の石は、文字通り硬い石で成っており、良質な石英安山岩です。郷土史によると、硬石山を発見した人は、政府から請け負った大岡助右衛門と言う人で、明治5年に発見しました。
なぜ、石が必要かと言うと、開拓使の庁舎などの建設の為で、最初は、円山から採掘していましたが、自然保護の為1年ほどで中止、その後硬石山から採掘することになったそうです。ちなみに、大岡助右衛門と言う人は、大工で開拓使の仕事を請け負い、いろいろな建物を手がけました。例をあげると、豊平館、時計台、藻岩学校、創成女学校、諸官庁などで、札幌草創の功労者として、中島公園の記念碑にもその名が刻み込まれています。
さて、砕石当初は、採掘現場までの道路がありませんでした。そのため、砕石現場からは、豊平川を筏で流送し、創成川取水口まで運んだと言われています。
明治12年、明治天皇の行幸に備えて、宿舎、豊平館が北l条西l丁目に建築を開始し、明治14年8月に完成しましたが、その豊平館の礎石に、硬石山の石が使われました。この頃には、石才運搬の道路も開通して、馬車や馬橋(ばそり)による運搬も可能になりました。このように、硬石山の石は、札幌の礎石として建物の礎石、堤防、道路骨材、墓石など開拓時代から、なくてはならないものだったのです。
第八遍 【馬車鉄道】
郷土史によると、明治42年、助川貞一郎氏が、硬石や軟石の搬送を馬鉄ですることに着目して札幌石材馬車鉄道合資会社を設立しました。南l条西11丁目付近から山鼻・八垂別を通り、現在の石山大橋の北側付近で豊平川を渡り、石山に至る約11キロの線路でした。馬が鉄道の上をトロッコのような車を引いて走るものであったそうですが、当時硬石・軟石は大切な建築資材であり、この重い石を一度に大量輸送ができたのてとても便利でした。
大正元年になると、線路をもっと延ばし、「客馬車」としても利用できるようになり、料金は3銭、12人乗りでした。
また、面白いことには、1時間八里(32 キロ)までのスピード制限があったそうです。それでもよく脱線して、その都度、乗客は降車してみんなで車を持ち上げてレールにのせ、再び馬に引かせて走ったというのんびりした時代でした。その後、料金は、区間制になり、全区を4区に分け1区間5銭とし、20人乗りが導入されて、18台の馬鉄が運行、住民には欠かせない交通機関となりました。
しかし、市内から石山までは20銭かかり、当時の米一升の値段より高かったそうで乗る人は少なかったと言われています。一時隆盛を極めた馬鉄も、電力時代の波に勝て沢開道50年記念大博覧会を契機に路線を電車に切り替えることになり、大正7年馬鉄軌道は撤去され、これにより、この地域は、非常に不便になりました。
第九遍 【石山本通り<旧道>】
別名旧道と言っている通りは、前号で書いた通り、硬石、軟石がこの道路から運ばれたために、石山本通りと呼ばれました。今の国道230号線、新道と呼ばれる道路(ポスフール・藻岩高校の前を通り、藻南公園前で旧道とつながる道路)ができたのは昭和38年ですから、それまでは、この旧道が、札幌市街と八垂別を結ぶ唯一の道路でした。この地域は、大正7年馬車鉄道が廃止されてから、交通は非常に不便になりました。同じ年に定山渓鉄道が通りましたが、これを利用するには、豊平川を渡って真駒内か石山に出なければならず、これまた不便でした。
昭和の初め頃、車体の色から「青バス」と呼ばれた、民営のバスが通ったことがあるそうです。今の川沿2条あたりから、南3条(中央区役所)あたりまでの路線でしたが、当時としては運賃も高く、利用者も少なく困っていたそうです。これに乗ったことのある人の話では、「昭和5、6年頃、自転車で町に行こうとした時、青バスに、乗ってくれ、乗ってくれ、とせがまれ、自転車も一緒に積み込まれた。」と回想しています。この青バス、数年ほどで姿を消しています。
この地域に、市営のバスが走るようになるのは、昭和23年まで待たなければなりません。当時の市営バスは、木炭で走るバスで、札幌で10台ほどしかないめずらしいものでした。この木炭バス、2年ほど運行されています。(郷土史より)
第十遍 【自助園牧場】
八垂別八号の沢(現在の南沢)に、牧場があったことはあまり知られていません。大正12年(1923年)に、北海道における酪農経営の実現を生涯の事業にすべく、佐藤善七、貢(長男)、昇(次男)氏3名揃って、「自助園農場」を開園しました。自助園の由来は、フランクリンの「天は、自ら助ける者を助く」から取ったものです。しかし、開園した土地は重粘土傾斜の府せ地で、農家が夜逃げした日くつきの場所で、ほとんど荒廃地同然でした。佐藤親子は、まず、土地の改良に着手し自給堆肥を大量投与。また、牧場つくりとして、牛舎、サイロ、製乳室などを建築、石切山の軟石を使った耐寒建設を工夫したりなど、懸命に取り組みました。
その努力が実り、土地は年々肥え、乳牛もどんどん増えて、道内でも有名な牧場になるまでになりました。特に、牧場の自助園三色アイスクリームが、「三色三味」と言う日本で始めての製品で、全道に名声を博し、全道から見学者も多く来たそうです。こうして、自助園牧場は成功を収めましたが、佐藤親子が北海道酪農発展のため東奔西走することが多く、牧場経営を家族や従業員に任せることが多くなり、やがて、充実した経営が困難となり、昭和16年、牧場を閉鎖しました。
しかし、佐藤親子の業績は評価され、川沿の藻南福祉会館に「佐藤善七翁頌徳碑」があります。ちなみに、佐藤善七氏は雪印乳業の初代社長です。(郷土史より)
第十一遍 【小林峠】
国道230号線からポスフールを曲がり北の沢を経て盤渓に向う途中に、この峠があります(道道西野真駒内清田線)。小林峠は、南区と中央区との区境にある峠のことで、昔は馬も通れぬ急坂のこの峠は、藻岩山・三角山一帯の丘陵南西側に位置し、北の沢から盤渓・福井・西野へ通ずる唯一のけもの道でした。急斜面のこの道を地元の人々は這うように往復したと聞いています。
第2次世界大戦後、経済発展に関連して、この峠の整備開通を願う地元住民の声が高まり、当時、北の沢分区長であった小林新夫氏を代表とする運動が展開されました。昭和29年には地元住民による用地寄付がなされ、昭和31年には、改修測量が実施、その間も小林新夫氏を代表とする陳情が関係方面へ幾度となくなされました。そして、ついに昭和35年北の沢・盤渓間4.2キロの道路開削工事が始められました。この工事は、急斜面の難工事でブルトーザーが滑り落ちるほどでしたが、約6年の歳月を経て昭和40年に完成しました。この時、小林新夫氏の労苦に報いて、「小林峠」と命名されました。
現在、峠の頂上に「小林峠」と書いた碑があります。そこから見える景色は昔と変わりましたが、俯熱を持って、忍耐強く、運動していた小林新夫氏を初めとする先人達の心は、今もなお変わらず、この峠から私達を見ているような気がします。
第十二遍 【割塊(わりぐれ)】
札幌中心部から国道230号線を川沿方面に走ってくると、藻岩山観光道路に上る分かれ道が右手に見えてきます。この分かれ道付近を開拓時代、割塊(わりぐれ)または、割栗(わりぐり)と呼んでいました。どちらが正しい名称なのかわからないのですが、嘆字の意味を考えると、私は割塊(わりぐれ)が正しいのではないかと考えます。この意味は、土などの塊(かたまり)が割れた様子のことで、その場所の雰囲気に合っていますが、割栗(わりぐり)の意味は、割栗石の略称で、建物の拮礎に敷く細かい石の事です。
この割栗石、実は硬石山で大量に生産され、ここを通って札幌に運ばれていました。たぶん、この経緯で、当時の人は混同したのではないかと考えます。(あくまでも私見です。知っている方は教えてください。)
さて、由来はこの辺にして、開拓時代当時、この付近はとても危険な場所でした。なぜなら、明治時代、豊平川は、この割塊にぶつかり、大きな淵を作りながら流れていたのです。今と違って水量も多く、雨が降ると、たちまち洪水。せまい道路は冠水して通れなくなりました。八垂別(藻岩)地区の住民は、札幌市街に行くにはここを通るしかなく、さながら「陸の孤島」となるのは日常茶飯事でした。
現在でも、この付近の交通渋滞は大変ですし、今も昔もあまり変わっていないと考えるのは私だけでしょうか?。(次号は、豊平川今昔について)
第十三遍 【豊平川今昔】
現在、藻岩地区を流れている豊平川の場所は、開拓当時とはかなり違っています。昔の豊平川は、石山方面から藻南公園のおいらん淵にぶつかり、大きく左に曲がって、今よりも西側のルートをとっていました。今で言うと、旧道と言われている石山本通りのそばを流れて、前号で書いた割塊(わりぐれ)にぶつかり、東に進路を変え、札幌中心部へと流れていました。今でこそ、豊平川は穏やかに流れていますが、開拓当時、豊平川は大変危険だったと郷土史に書いてあります。毎年のように、氾濫、洪水を繰り返し、中でも、大正2、3年頃の洪水はひどかったらしく、その時に豊平川は、本流を真駒内側へと移動して、かつての豊平川流水跡には、流入土砂が広がって行きました。(現在のソシア、グリーンホテルや藻岩高校、ポスフールなどあの辺一帯は、昔は、豊平川の流れの一部でした。)
このように、氾濫、洪水を繰り返しながら、豊平川は、大量の土砂を藻岩地区に広げて行きましたが、戦後、この大量の土砂の有効利用を考え、札幌発展途上の建築材料として、また失業対策の一環として、砂利採取が始められたのです。現在、藻岩地区で砂利採取はやっていませんが、なごりと言えば、中心部へ向う川沿バイパスを抜けて200mほどの右手に「豊平川砂利協同組合」と書かれた建物があります。この砂利採取、後に、地域住民の日常生活の大問題になります。(以下次号)
第十四遍 【千石溜】
藻岩地区の砂利採取は、札幌市の発展に大きく貢献しましたが、その採取跡が大きな問題になりました。砂利採取の穴が至るところに大きな口を開けていたのです。
札幌市は、昭和24年に、一つの穴の利用方法を考えました。それは、「し尿処理」です。その穴は、今で言うと、南区体育館あたりで、札幌市は、そこにコンクリートの貯留槽を作りました。地元住民はそれを「千石溜」と呼びました。これに一般住宅の「し尿」を貯えて、近郷農家に販売しました。当時の農地は、開拓以来の地力の衰えで追肥料を必要としていました。農民は、そのような農地に農耕後の夜に札幌市街まで行き「こやし汲み」をしているのが実情だったので、面白いほど売れたそうです。また、他の穴には病院その他の消毒した「し尿」と札幌市街のゴミを投げ入れました。ところが、河川地帯は砕石を撒いたと同じ状態ですから、「し尿」の水分は地下に吸収され、人糞のみが残り、それが年月と共に剣先も通らぬほど固くなったそうです。当時この一帯は一種異様な臭気が漂い、異常発生したハエは、うっかり窓を開けておくとテーブルを真っ黒にしたと郷土史は書いています。昭和27、8年頃、この一帯の井戸水から泡だった水が出るようになりました。地下に吸収された「し尿」が地下水を汚染したのです。札幌市は、行政不備の善処として、この地区に以後数年間、毎日大型タンクで飲料水を運ぶことになります。
第十五遍 【埋立地】
前号で書いたように、札幌市は砂利採取の跡に「し尿」やゴミを投げ入れていましたが、地域住民の生活に配慮し、またゴミ捨て場としての許容量の限界がきていた為、埋立地にすることにしました。私が小学校の時くらいだと思いますので、昭和42年頃くらいだと思います。当時、現在のポスフール、藻岩高校附近は、‘コミの山で、ブルトーザ一がゴミを集めていた光景をバスから見ていたのを思い出します。その埋立地に藻岩高校が昭和48年4月開校しますが、まだ校舎は出来ていません。新校舎が出来るのはその年の12月で、その間生徒は、中央中学校に間借りしながら勉強していました。なぜ知っているかと言うと、私は、その藻岩高校1期生だからです。何年か前ですが、藻岩高校の教頭先生とお会いする機会があり、その時の話ですが、「今でも、藻岩高校の埋立地の土手附近から有毒ガス・水が出てきている」と言っていました。改めて、「ゴミ問題」は大変重要だと痛感しました。ところで、「ごみ問題」で思い浮かぶ動物と言えば、何でしょうか?。そうです「カラス」です。このカラス、札幌市内に3つの営巣地があります。それは、円山地区、野幌地区、そして藻岩(川沿)地区にあるのです。東海高校の下の森には、大変な数の巣の跡があります。カ
ラスもえさ場の近くの方が良かったのかもしれません。このように、「ゴミ問題」は、動物の生態系も変えるようです。
第十六遍 【ボウリング場】
藻岩高校やポスフール、グリーンホテル(現アパホテル)の場所は、以前はゴミ捨て場で、埋立地だった事は前号で述べましたが、それでは、川沿のソシアの場所は何だったかと言うと、ボウリング場だったのです。知っている方も多いと思いますが、名称は「東宝ボウル」で、昭和46年12月に出来てます。(それ以前は、自動車免許練習場でした)折りしも、昭和45年頃よりボウリングブームで、テレビでもボウリングのドラマが放映され始めたと思います。出来た当初は大変盛況で、待ち時間、1~2時間と言うのは当たり前でした。しかし、昭和48年のオイルショックで、ブームはあっという間に去り、ボウリング場は閉鎖されました。
ボウリング場が閉鎖されてから、しばらくして、生協(現在のソシア)がオープンします。昭和50年11月のことです。この頃は、この地区に大きなスーパーがなかったので、近隣住民には好評でしたが、地元商店街組合にとっては大変な痛手でした。さらに、今度はニチイ(現ポスフール)が現在の場所に出店します。地元商店街は、反対運動をしますが、時代の波に勝てず、商店街はだんだん衰退して行きました。しかし現在、地元商店街は、いろいろな独自の行動を模索しています。
地元スーパーはもちろんのこと、小さな商店も消費者の味方となって「共存共栄」を目指しています。ぜひ、皆さんも、お買い物は「地元のお店」で「地産地消」を。
第十七遍 【橋梁今昔<その1>】
今現在、藻岩地区から真駒内方面や石山方面に渡るには、藻南橋と石山大橋、それに、五輪大橋があります。また藻岩下地区には、新藻岩橋、ミュンヘン大橋があります。しかし、開拓当初は、橋などありませんでした。この地区の歴史に、初めて橋が出てくるのは、明治42年、石切山の軟石を運ぶため硬石山(津島氏附近)より石山(西村商店)にかけて、馬車鉄道の橋がかけられてたあたりである。
丸太造りの木橋であったが、馬鉄にかなり重量のある石材を積んだものが通るほどの頑丈な橋で、複線になっている立派なものでした。馬鉄を通す事が日的で、人は自由に通行できなかったが、大正2年の洪水で流失し、その後、仮り橋をかけて馬鉄を通していたが、それも何回も流失したと言う事です。これを知るに、本当に昔の豊平川(昔は、札幌川と呼ばれていた)は、暴れ川だったのがよくわかります。
大正8年、戸島栄太郎さんという人が石山方面へ行きやすくする為に、渡し舟の許可をもらい、今の石山大橋あたりで渡し舟を始めたが、当時の川は、今と違いかなりの急流で苦労したと郷土史に書いてあります。豊平川は、その後、年々流れを強くして人の力ではどうにもならなくなり、大正13年、約5年間に及ぶ渡し舟は中止されます。硬石山の人達は、渡し舟がなくなると日常生活が大変になりました。なぜなら、その頃、買物は豊平川を渡って石山に行っていたからです。(以下次号)
第十八遍 【橋梁今昔<その2>】
渡し舟をやめた大正13年に、戸島氏が中心になって硬石山住民達と力を合わせ、渡し舟をしていたあたりに、鉄線のつり橋をかけています。その頃の豊平川は、中州があり本流と支流に分かれていました。硬石山側が本流で、中州までつり橋がかけられ、石山側の支流は、大きな石が点々とあり、その上を飛び歩くような状態でした。長さは約50m、橋から水面まで約5mあったそうです。風の強い時は特に揺れがひどく、さらに雨の日や春先の雪解けの増水などのため、本流のつり橋は渡れても、石山側の支流を渡る事ができず、困ったと郷土史には書いてあります。
この鉄線つり橋は、昭和10年に戸島氏が移住したため、安保氏が譲り受け、鉄線がすっかり延びて老朽化したのを補修架け替え、昭和32年の大風で壊されるまで使われました。当時は、八垂別地区と石山地区を結ぶ唯一の橋で、大事な橋でした。この頃の地域住民にとって、本格的な橋の建設が願いでしたが、昭和23年に、逓儒病院横から石山にむけて、道庁の起債l582万円をかけて木造橋が架けられました。長さー47m、幅5mで石山大橋と名づけられ、地域一同喜び合ったが、わずか1年後の昭和24年8月に、豊平川の洪水のため流失しました。
つくづく、豊平川の洪水の激しさが、どんなにすごかったのかよく分かります。
石山大橋の流失で、今度は国費をかけて橋を架けることにしました。(以下次号)
第十九遍 【橋梁今昔<その3>】
石山大橋がわずか1年足らずで流失してしまいましたので、今度は、国費で架けられたのが「藻南橋」です。昭和25年着工、昭和26年に完成し、長さl05m、幅6mの鉄骨橋でした。なぜこの名前がついたかというと、名前を一般に公募して、「藻南橋」が選ばれたそうです。藻南橋は、何度か改修され、現在の形の藻南橋に架け変えられたのは、今から9年前の平成7年7月です。藻南橋の完成で、この地区に初めて永久橋が架かりました。これにより、石山、真駒内方面の往来が非常に便利になりましたので、地域住民は大変喜びました。なぜなら、この当時、この八垂別地区の近くにある橋は、硬石山のつり橋と、旧藻岩橋(現藻岩上の橋)しかなかったからです。ちなみに、旧藻岩橋は、何処にあるかと言うと、南38条西10丁目の土屋ホームの裏手附近にあり、今現在でも渡れるのですが、人、自転車専用で車は渡れません。私が小学校時代の時は、車はもちろん、バスも通っていました。
旧藻岩橋は、意外に古く、昭和7年に鉄筋コンクリート橋で架けられています。この時代、旧藻岩橋を過ぎてから札幌市街へ向うと、次の橋は、幌平橋(木の橋)で、他の橋はありませんでした。なぜ旧藻岩橋は、こんなに早く、また鉄筋コンクリート橋で架けられたのでしょうか?。もちろん、地元住民の陳情、願いもあったでしょうが、私の推測では、もっと重要な別の理由があると考えます。(以下次号)
第二十遍 【橋梁今昔<その4>】
なぜ、旧藻岩橋(現藻岩上の橋)は、昭和7年に鉄筋コンクリートで架けられたのか?。これを解くヒントは、明治14年の明治天皇行幸にあると考えます。
明治天皇は、明治14年北海道に視察に来ています。この時、明治天皇は、真駒内牧牛場の視察から山鼻方面に来ています。真駒内から山鼻に行くには、真駒内の現在の藻岩橋附近から渡し舟で渡るルートしかなかったのですが、明治天皇が来ると言う事で急逮、朱色の木製の仮橋が架けられたのです。これが、藻岩橋の最初です。
明治14年当時、豊平川に架かっている橋は、豊平橋とこの藻岩橋の2つしかなかったのです(鉄道の橋は除く)。こう考えると、とてもすごい事だと思いませんか?。
藻岩橋は、その後、流され無くなってしまいましたが、大正時代からの地元の願いと、折りしも、天皇崇拝の時代が来て、「明治天皇が渡った由緒正しい橋が、洪水で流されたままと言うのは、不敬だ」と考え、昭和7年(藻岩下郷土史では9年)に流されないよう、鉄筋コンクリートで造られたのではないかと私は考えます。
この時代、このような永久橋(鉄筋、鉄骨橋)は、豊平橋と藻岩橋の2つしかありません。あとは、全て木の橋です。明治天皇は、もちろん、豊平橋も渡っています。今、私の推測を裏付けるものはありませんが、戦前の天皇は神であったことや、当時の時代の趨勢を考えれば、あながち間違いではないと思います。(以下次号)
第二十一遍 【橋梁今昔<その5>】
昭和26年以降、藻岩地区(八垂別地区)から真駒内方面に行くには、藻南橋と旧藻岩橋を通るほかなかったのですが、(硬石山のつり橋もあったが、昭和32年に消失)昭和44年に工費2億2700万円かけて、長さl50m、幅15mの橋が着工され、翌年11月に完成しています。どこの橋だかわかりますか?
そうです、五輪大橋と五輪小橋です。この橋、はじめは北の沢大橋と呼ばれていましたが、後になって、昭和47年(1972年)第11回冬季オリンピック札幌大会を記念して、豊平川にかかる橋を五輪大橋、真駒内川にかかる橋を五輪小橋と名づけました。これで、真駒内方面に行きやすくなったのですが、この時期くらいから、国道230号線の交通量が増加し、藻南橋ではさばき切れなくなりました。当時、定山渓に行くには、藻南橋を渡り、石山陸橋を通り、石山市街地を通過して藤野方面に行く方法が最適でした。週末になると、定山渓に向う国道230号線は、今よりもっと渋滞していたと思います。そこで、昭和52年(1977年)に、硬石山地域から石山へ新石山大橋が架けられました。実際の橋の名前は石山大橋ですが、ここでは、あえて新石山大橋と呼びます。(過去に石山大橋は存在していたので。歴史探検⑱を参照)全長203m、幅20.5mの鉄骨橋で、これによって、硬石山地域から石山市街地を通らずに定山渓、中山峠方面に行けるようになりました。
第二十二遍 【八垂別の由来<その1>】
この地域は、昔「八垂別」と呼ばれていた事は、皆さんご存知だと思いますが、では、「なぜ、そう呼ばれたのか」知っている方は、少ないと思います。この漢字地名「八垂別(発垂別など)」の語源は、もちろんアイヌ語からです。
アイヌ語の「ハッタル(ラ)ペッ」また、「ハッタルッペ」等に由来し、その意味は、「水が深くよどんだ所、(淵)の川」です。そう考えると、割栗には、おおきな淵がありましたし、おいらん淵もあります。アイヌ語の地名にぴったりだと思います。
初めてこの地名が出てくるのは、明治2年の札幌地図に「ハッタラベツ道」とあり、明治5年に開拓使が札幌の地名を和名にしたとき、発垂別・発足別と表示。
翌年、札幌本庁が官林を示した各所の中に、円山、紅、発垂別とあります。これが、後の八垂別官林で、明治14年「札幌郡官林、風土略記、八垂別林之部」に八垂別と明記され、これ以後、公称地名は「八垂別」となり、明治30年頃の地域の住所は、「札幌郡藻岩村大字山鼻村字八垂別」となりました。しかしなぜ、「発垂別」が「八垂別」になったのでしょう?。郷土史を読んで見た私の推測ですが、明治初期、この地域に出入りしていたの
は、木の切り出しをしている人達しかいませんでした。その人達は、木の切り出しの為、便宜上、この地域を幾つかに分け、それぞれに俗称をつけ呼んでいました。何と呼んでいたかわかりますか?。(以下次号)
第二十三遍 【八垂別の由来<その2>】
明治初期、木の切り出しの為この地区に入った人達は、便宜上、呼び名をつけて仕事をしていたと推測されます。そうしないと、遭難するからです。当時この一帯は、「とど松の木立ちなり」と古い文献(安政5年、松浦武四郎「後方羊締日記」)に書いてあるように、鬱蒼たる森林だったと思われます。みんなが、間違えない呼び名を付けなければなりません。そこで、付けた名前は、数字。でも、何に付ければよいでしょう?。普遍的な物につけることが重要です。今でもそうですが、森に入る方法、もしくは、森から出る方法で、一番安易なのは、沢伝いに行く方法です。たぶん、昔の人も、この方法で森に入って行き、この方法で出てきたと思います。つまり、便宜上、沢に番号を付けて仕事をしていたのではないでしょうか?。
事実、北ノ沢は、昔は、「四号の沢」。中ノ沢は、昔は、「五号の沢」。南沢は、昔は、「八号の沢」と呼ばれていたのです。このように、この地域は、1から8までの沢で区分されて呼ばれていたのです。この8つの沢の「八」と、発垂別の「発」の発音は似ているし、「発」よりも「八」の方がここの地名に合っていると考え、「八垂別」となったのではないかと私は推測します。そもそも最初に「発垂別」と書いたのは、アイヌ語の発音をそのまま表記しただけで(アイヌ語は文字がない)当て字であり、この表記が絶対正しいとは考えていなかったと思います。
第二十四遍 【八垂別の由来<その3>】
前号で書いた通り、この地域は「八垂別」と呼ばれていましたが、「八垂別」の各地域は、川沿を「本通り」、北ノ沢を「4号の沢」、中ノ沢を「5号の沢」、南沢を「8号の沢」と呼んでいました。これは、いつから呼ばれていたかははっきり分かりません。なぜなら、そもそも記載された文献がないのです。しかし、この地域の最古の入植者である兵藤繁利氏(明治19年入植、明治40年生まれ)の話によると、「入植当時から、そのように呼称していた」そうで、この呼称は、長い年月親しまれていたと思います。
ところで、この地域で南沢が「8号の沢」と呼ばれていたのですから、沢が8つあったはずです。では、8つの沢は、今現在のどこにあたるのでしょう?実はこれを見つけるのは、大変難しいのです。郷土史には、地図が書いてあるのですが、川しか書いてなく、日印もありません。もちろん縮図の倍率もありません。昔の文献があればいいのですが、当時、この地域を管轄していた山鼻村役場が明治23年3月火事で焼失してしまい、当時の記録は全てなくなってしまったのです。
また、土地開拓が進み、昔の地形とずいぶん変わりました。川の流れも昔と違うと思います。しかし、昔の開拓者の思いを感じながら、「沢捜し」も楽しいのではないでしょうか。春の訪れと共に開拓者の気持ちで「8つ沢捜し」いかがですか?
第二十五遍 【八垂別の由来<その4>】
この地域は、明治、大正、昭和と長い間、四号の沢(北ノ沢)、五号の沢(中ノ沢)、八号の沢(南沢)、本通り(川沿町)と呼ばれていましたが、では、いつから現在の町名に変更になったかと言うと、昭和16年7月1日から現在の町名に変更になりました。これにより、各部落の総称であった「八垂別」と言う公式名称は削減しました。現在、八垂別の地名が残っているのは、以前このたよりに書いた「八垂別墓地」と「八垂別の滝」だけです。
私としては、この「八垂別」の地名をなんとか後世に残したいと思っています。実は、皆さんは気付いたかもしれませんが、このたよりの左下に、以前は、「南沢ラベンダー」と書いていましたが、今は「八垂別ラベンダー」と変更しました。このほうが、この地域に合っていると思うからです。東京では、土地の旧名が見直されています。例えば「お台場」「汐留」など、全て江戸時代の地名です。旧名には、それぞれ、その土地の昔の情景が感じとれます。「八垂別」にしても、この地域をまったく知らない人でも、「昔、八つの何かがあったのでは?」くらいわかります。(本来は、違う意味ですが)そして、それがきっかけで、この地域に対する愛着が生まれるかもわかりません。今後も、折りにつけ「八垂別」の地名を出して行きますので、皆さんも、この地域の旧名、「八垂別」をよろしくお願いします。
第二十六遍 【藻岩山<その1>】
この地域のほとんどの家から見える藻岩山は、札幌市民の山として、親しまれていますが、この地域一帯は、藻岩地区や藻南地区など地名としても使っているほど、密接に関係しています。藻岩小学校の校歌にも歌われている藻岩山は、標高53lmで、アイヌ人は藻岩山のことを「インカルシペ」と呼んでいました。その意味は「そこでいつも物見をする所」と言う意味ですが、「藻岩」とは似ても似つかぬ名前です。普通なら「インカルシペ」を基にした名前が付いているはずです。なぜなら、北海道のほとんどの地名は、アイヌ語を和名の名前に当て字したものばかりだからです。どうして「藻岩山」と付いてしまったのでしょう?。
ヒントは、「藻岩(モイワ)」にあるのです。「藻岩」は、アイヌ語の意味は、「モ、小さなの意味」と「イワ、山、岩山の意味」の意味です。つまり、「モイワ」の意味は、小さな山と言う意味ですが、藻岩山は決して、小さな山ではありません。それでは、アイヌ人が「小さな山」と呼んでいた山はどこにあるのでしょう?気づいた方もいると思いますが、藻岩山のすぐそばに小さい山があるのです。そう、それは「円山」なのです。アイヌ人は、円山のことを「モイワ」と呼んでいたのです。本来「インカルシペ」であった「藻岩山」に、なぜ、「円山」の名前だった「モイワ」の名前がついたのでしょうか?。これを次号で推察したいと思います
第二十七遍 【藻岩山<その2>】
なぜ、本来、円山の名前だった「モイワ」が、今現在の「藻岩山」についたのか?いろいろな郷土史や文献を調べると、一様に、「誤って」とか、「間違えて」と書いてあります。はたして、本当にそうでしょうか?。私は、違うと思います。私が推測するに、明治の開拓者は、「モイワ」と言う名前をどうしても残さなければならない理由があったと思います。その理由を述べる前に、まず、「モイワ」だった「円山」が、なぜ、「円山」と言う名前になったかを知る必要があります。
「円山」の由来は、円山の郷土史に、明治3年、島義勇判官が、農業産業の村として、「庚午三の村」(かのえうしみつのむら)を拓いたのが最初。この村の入植者の出身は、酒田県(現在の山形県庄内地方)で、約90名が入植したと書いてあります。明治4年、2代目開拓判官、岩村通俊は、京都の東山区の名勝地「円山」にあやかり、本来、「モイワ」だった山を「円山」に変更、近くにあった「庚午三の村」を「円山村」に変更しました。これにより「モイワ」と言う山は消滅するのですが、なぜか「インカルシペ」の名前の山に「モイワ」の名前がついているのです。
おかしいと思いませんか?「モイワ」と言う山が「円山」になっただけなら、単に「モイワ」と言う名をなくせば済む事ですし、また、当時から「インカルシペ」と呼んでいた山の名前を、住民が「間違えて」とか「誤って」言う事はないはずです。
第二十八遍 【藻岩山<その3>】
「モイワ」の名前を残さなければいけない理由は、何だったのでしょう?調べて行くうちに、だんだんとわかってきました。ヒントは、やはり「モイワ」の名前にあったのです。そのーにも書いてありますが、「モイワ」の意味は、アイヌ語で小さな山と言う意味ですが、元々は、祖先の祭場のある神聖な山を指していたのです。「神の住む所」の省略形か」とアイヌ小辞典にも書いてあります。つまり、「モイワ」とは、とても大事な場所であり、名前だったのです。事実、北海道には、モイワの名前がついた場所が、いくつもあります。(ニセコモイワなど)
考えてみれば、円山のすぐそばには、北海道神宮があります。これも明治初期に開拓者が作ったものです。この地域は、やはり霊的な場所だったのでしょう。
しかし、これには、アイヌの人達は怒ったでしょう。なにせ、自分達の祖先の神型な場所の名前を勝手に変え、更に、その場所に違う神様を持って来たのですから。普通、こういう事をすると「バチが当たる」と言います。まさに、「バチ当たり」な事をしたのです。現在でも「祟り」は怖いものです。ましてや、当時の人は、もっと怖かったのではないでしょうか?。そこで、「祟り」を受けないためには、アイヌの人達や祖先の霊の怒りを静めないといけません。それで、円山より高い山(位が上と思わせる)に「モイワ」の名を付けて、更に名前が残るようにしたと思います。
第二十九遍 【南沢の読み方は?】
南沢の住民は、自分たちの住所は、何と呼んでいますか?
「みなみのさわ」それとも「みなみさわ」、もしくは「なんざわ」ですか?私が子供の頃は、ほとんどの人が「みなみのさわ」と呼んでいましたが、住所表記上は、「南沢」と書いてあります。では、いつから「南沢」と言う住所が出来たかと言うと、以前書いた通り、昭和16年7月からです。その前は、「八垂別・八号沢(澤)」が正式呼称でした。この時、一緒に四号澤が北ノ沢に、五号澤が中ノ沢に改称されたのですが、どういうわけか、八号澤だけが南沢となって、南と沢の間に「ノ」が入っていないのです。その理由がなぜなのか、資料がなく、よくわからないのです。
しかし、私も含めて昔は、「南沢」と書いていても「みなみのさわ」と呼んでいました。事実、南沢に流れている川の名前は、「南の沢川」であり、南の沢小学校もあり、南の沢児童会館もあります。どれが本当の呼び名で、読み方なのでしょう?
私見ですが、変わった当時は、「南沢」と書いていても、地元住民は、間に「ノ」を入れて「みなみのさわ」と呼んでいましたが、後から住み始めた新しい住民や他の地域の人達は、文字通り読んで「みなみさわ」と読みはじめました。この辺から二つの呼び名が出てきたのではないでしょうか?どちらが正しいかは別にして、正式名称である南沢に、なぜ、「ノ」が入らなかったのか、不思議でなりません。
第三十遍 【定山渓鉄道】
大正7年馬車鉄道が廃止された年、定山渓鉄道が定山渓から真駒内を通り白石まで敷かれました。もちろん蒸気機関車で煙をはき、蒸気の音をさせて汽笛を嗚らす当時としては立派なものでしたが、「豆機関車」と呼ばれる力の弱いものだったので、坂のきつい所では、バックをして勢いをつけたり、別の機関車に後押ししてもらったりの状態でした。1日3往復、料金は81銭、26人乗り客車を2、3輌引いて約2時間かかったと郷土史に書いてあります。私が定山渓鉄道を見たときは既に電化されており、よく石山陸橋でこの電車を見たものでした。石山陸橋は、この定山渓鉄道の上を走る為に作られた橋ですが、今は車の為になっています。この定山渓鉄道は、昭和44年に廃止されますが、その跡地の一部が現在の地下鉄の線路になっています。(真駒内ー南平岸間)もし、定山渓鉄道が廃止されず、真駒内から定山渓まで走っていたら、南区も随分と違った町並みになったのではないでしょうか。そう考えると残念でなりません。とは言っても、豊かな自然がここまで残っているのは開発されなかった為と言わざるを得ません。真駒内~定山渓間の線路跡は分かりづらくなりましたが、当時の鉄道を思いながら散策するのも良いものだと思います。ちなみに、残念ながら、定山渓鉄道は八垂別地区には乗り入れておりません。馬車鉄道も廃止されなければ八垂別地区も随分変わっていたでしょう。
第三十一遍 【ガンケ】
国道230号線を定山渓方面に走って行き、石山大橋を渡って行くと、右側に硬石山の採石場が見えてきますが、その硬石山と豊平川の境Hに、少しだけ道のようなものがずっと白川方面に続いているのがわかります。今は、落石で歩く事は出来ませんが、昔は(昭和40年代まで)ちゃんとした道だったのです。通称「ガンケ」の道と言っていました。その由来は、見たまま「崖の道」だから、崖が訛ってガンケになったと郷土史には書いています。この道を語るには、絶対触れなければいけない人物がいます。その人とは、紀州屯田兵の「小村亀十郎」です。小村亀十郎は、明治31年12月、この地に現れ、当時木こりの人しか入らなかった白川を開拓しようと決意。私費で硬石山から白川に道を作ることを始めました。当時は、南沢から白川へ続く道などありませんし、文字どうり、白川は、真っ白な未開の土地でした。しかし、土地の形状などから農業に向いていると、小村亀十郎は判断したそうです。突貫工事の成果、翌年の2月には、この崖の道「ガンケ」が出来ました。
そして、開拓農民を募集し、十数戸の開拓者が入植、ここに白川が誕生しました。白川の人達は、小村亀十郎の教えを守り、よく働いたそうです。その教えは「倹約・親切・礼儀正しく」。私は、今現在でも、この教えは白川の住民に残っていると思いますし、白川の実り豊かな果物や野菜は、先人達からの贈り物だと思います。
第三十二遍 【藻岩小学校<その1>】
この地区(八垂別)で、一番古い小学校は、皆さんご存知の藻岩小学校です。
藻岩小学校は、明治34年4月7日に開校しました。出来た当時の学校の名前は「公立八垂別尋常小学校」と言い、現在の場所に教室が1つと先生の住宅がある、小さな学校でした。しかし、八垂別の住民にとっては、とても嬉しい事でした。なぜなら、当時は、八垂別の子供達は8キロ離れた山鼻小学校まで歩いて通っていました。道は、石ころだらけで、また途中に難所の割塊(栗)(*歴史探検参照)を通らなければならず、とても危険な通学でした。ですから、大多数の子供達は、学校に行けず、家の手伝いをしていました。それでも、丈夫な男の子の何人かが通っていたそうです。(藻岩小学校lo0周年記念誌より)
藻岩小学校を語るには、1人の人物を紹介しなければいけません。その人とは、八号の沢(現南沢)の阿部勘蔵氏です。阿部勘蔵氏は、学校に行けない子供達を見て心を痛め、地元に学校を創立しようと熱心に八垂別の住民に呼びかけました。安部氏の熱心な呼びかけに八垂別の住民も徐々に賛成する人が増え、明治33年2月に工事が始まりました。工事は全て住民が物心共の奉仕で着工、翌年4月6日に完成しました。翌日の開校式は、八垂別の全住民が集まり、盛大にお祝いしました。
当時と同じ場所にある藻岩小学校は、「先人達の子供への愛情」の贈り物なのです。
第三十三遍 【藻岩小学校<その2>】
八垂別の住民の奉仕で出来た「公立八垂別尋常小学校」に、明治34年4月7日開校しました。その後、大正15年(1926年)高等科を作り、校名も「公立八垂別尋常高等小学校」と変えて行きます。ところで、つい最近まで(昭和60年)まで開校記念日は4月7日でしたが、現在の藻岩小学校の開校記念日は5月16日になっています。これはどういうわけでしょう?また、なぜ5月16日なのでしょうか?。その理由は、昭和60年当時、札幌市は、始業式、入学式を全市4月6日と定め、6日が休みの時は7日に行なうことにしていました。入学してくる新入生はもちろん、進級で新たな出発をしている子供達が、始まってすぐ翌日が休業日だったり、当日が開校記念日のため1日遅れで始業式、入学式を行なうことは、子供の意欲を削ぐと考え、昭和16年に「公立八垂別尋常高等小学校」から「札幌市立藻岩国民学校」に改称された5月16日を開校記念日(休業日)とするのが、学校運営上最適と判断し、変更したそうです。(藻岩小学校辻先生より情報)
したがって、現在は、4月7日は沿革史上の「創立記念日」とし、児童には5月16日を「開校記念日」として学校の祝日であることを周知しているそうです。くしくも、昭和16年は、この地域から八垂別の名称が消え、現在の名称に変更になった年でもあります。この年は、国全体も含めて変動の年と言えるでしょう。
第三十四遍 【藻岩小学校<その3>】
第2次世界大戦(大東亜戦争)後、日本の小学校は大きく変化します。昭和22年から、小学校6年間、中学校3年間の義務教育が始まります。また、それまでは、男子と女子が別々の教室で勉強していたのですが、区別なく勉強するようになったのもこの年からです。もちろん、この八垂別地区もこの学制改革で変わり、さらに、学校の名前も「札幌市立藻岩国民学校」から現在の「札幌市立藻岩小学校」へと変わりました。この時、中学校もできましたが、この地区は、柏中学校(南21条)の区域でしたが、遠くて通学できないため、小学校の2教室をあけて「分校」としたそうです。それだけでは教室が足りないので、当時、裏にあった藻岩神社の社務所も借りて勉強したと「藻岩小学校100周年記念誌」に書いてあります。
ところで、今は、面影はありませんが、藻岩神社は、小学校の裏にありました。子供の頃、よく神社の境内で遊んだ記憶があります。昭和40年代と思いますが、毎年夏になると、神社の境内で「ござ」を敷いて映画を上映していた記憶があります。当時は、映画などなかなか見ることが出来ないため、この地域の人達がたくさん集まり大変盛況していました。子供だった私も、友達と会えたりして、とても楽しかったことを覚えています。残念ですが、現在は、このような「地域独自の催し」が少なくなってきていると思います。みんなで「地域独自の催し」やりませんか?
第三十五遍 【藻岩小学校<その4>】
私が小学生の頃、藻岩小学校の校庭に1本のえぞ山桜がありました。この山桜は、明治33年、八垂別の学校を建てるに当たって、部落の人達が総出で現在の校舎の土地を整地した時に、弁当箱を縛り付けるのに好都合の若木であったと言います。
それで、この樹が記念に残ることになりました。と100年記念誌に書いてあります。今、この山桜は、残念ながら見る事はできません。昭和50年、校舎新築の時に伐採されました。当時の人達は、山桜の木を伐採する時、名残惜しく涙を流す人もいたそうです。この山桜は、藻岩小学校と共に歩んできたと言っても過言ではありません。今考えれば、何とかして残しておけばよかったと思います。
藻岩小学校の校章をよく見ると、桜の花びらがデザインされています。この桜の花びらこそ、校庭の山桜の花びらを表わしています。この校章は、昭和24年、佐藤佐(たすく)先生が作りました。校章のデザインは、山、水、花、そして、小の文字から作られています。山は、藻岩山、水は、豊平川、花は、校庭の山桜の花、小は、小学校の意味で、藻岩山のように、どっしりとした退しさ、豊平川のように澄んだ心とおおらかさ、長い間、藻岩小学校を見守ってきた校木のえぞ山桜のようなきびしさと美しさを持った子供が育つことを願って作られたそうです。今では、写真で見るだけとなった山桜ですが、校章の中で、今もしっかり生きています。
第三十六遍 【藻岩小学校<その5>】
今現在、この地域(八垂別)には、4つの小学校があります。藻岩、藻岩北、藻岩南、南の沢の4つですが、昭和47年まで、藻岩小学校しかありませんでした。それにより、昭和48年には、児童数1675人、38学級となり、藻岩小学校の児童数、学級とも最高記録になりました。(ちなみに、今現在の藻岩小学校の児童数は459人、16学級です)当然、1つの小学校では、とても管理、運営できるものではありませんので、事前に新しい小学校を新設する計画が立案され、昭和48年に新しい小学校が新設、開校しました。それが、藻岩北小学校です。この時、藻岩小学校から330人の児童が、藻岩北小学校に転校していきました。
しかし、その後も藻岩小学校は、児童数が増加の一途を辿ります。この頃は、この地域が、最も人口が増加し、世帯もどんどん増えていた頃だと思います。
昭和51年、新たに南の沢小学校が開校、457人が藻岩小学校から転校して行きます。さらに、昭和57年には、藻岩南小学校が開校、433名が転校して行きました。こうして、現在の4つの小学校の体制になりましたが、考えてみると、北ノ沢や中ノ沢、南沢から、藻岩小学校まで毎日通っていたかと思うと(たぶん1時間以上かかった)、当時の小学生は大変だったと思います。しかし、自然豊かなこの地域は、道草には最高のロケーションでしたので、通学も楽しかったはずです。
第三十七遍 【藻岩神社】
前号ですこし書きましたが、昔、藻岩神社は、藻岩小学校の裏と言うか、横と言うか、ほとんど同じ敷地にありました。藻岩神社が出来たのは、明治29年9月「山の神社」の碑として建立したのが最初です。開拓者兵藤繁治、橋本辰蔵氏など数名にて協議、割栗の自然石を採削して長三角形に削り、推定重量80貫(約300キロ)を、当時力持ちで名を馳せていた工藤重蔵氏が背負ってきたと郷土史に書いてあります。はたして、本当に300キロの石を背中に背負って来たかは分かりませんが、実際に、藻岩小学校の裏手に置き、丸太で鳥居を作り、「大山祗神」を奉斎して祭事をを行ない、鎖座神としました。
明治37年には、神殿が新築され「倉稲魂神」を合祀。同年、「猿田昆古神」も合祀。名前も、「山の神社」から「本通神社」と呼ばれるようになりました。その後、大東亜戦争時の昭和17年9月、札幌神社の分霊を受けて、社号を「藻岩神社」に改称し、老朽化が著しい神殿を改築しました。経費は、各方面からの寄付で、部落民総出の奉仕作業であったそうです。そして昭和45年9月に現在の場所(川沿4条5丁目)に移転しました。私が子供の頃、神社が藻岩小学校の裏にあった時は、神社の境内でよく遊び、神社の人によく怒られました。なぜなら、神殿に登り、その周りを走り回ったりするからです。今考えれば、とんだ「バチ当たり」ものです。
第三十八遍 【向陽学院<その1>】
平成元年6月まで、南沢から白川に抜ける通り沿いに、北海道立向陽学院(教護院)がありました。向陽学院とは、「児童の福祉を保障する児童福祉法に韮いて、不良行為をしたり、又は将来不良行為をなす恐れのある満18歳未満の女子児童を預かり、家庭的雰囲気、適切な環境の中で職員と共に日常生活を送りながら性向を改善し、1日も早く家庭或いは社会に復帰できるよう健全育成を行なうところ」とあります。南沢に向陽学院が出来たのは、昭和25年3月に設置決定し、翌年より開校しています。3つの寮(はまなす、しらかば、すずらん)と本館、炊事棟があり、別に職員公宅がありました。私の記憶では、本館には教会があったような気がします。郷土史に当時の写真が載っていますが、森の中にある静かな環境であったことは間違いなく、子供達が南沢の自然に囲まれて自己の確立を育むには、最高の場所だったと思います。ちなみに、私が子供の頃、この向陽学院付近を自転車で配達していた時があり、少し怖い感じがしました。なぜなら、3つの寮の窓には全て金網が張ってあったからです。しかし、そこにいる女の子は、いたって普通の女の子なのです。子供ながら
「なぜ、こんなところにいるの?」と思いました。しかし、当時の私には、幼な顔の子供達が隠していた心の闇などわかるはずもありません。
願わくは、ここを巣立って行った子供達が、幸せに暮らしている事を切に願います。
第三十九遍 【向陽学院<その2>】
前号の向陽学院で、読者の方より貴重な情報がありました。私が教会のような物が建っていたと言うのは、実は教会風のサイロだったのです。サイロとはもちろん牛や羊の食べる草を保存する場所ですが、なぜ、向陽学院にサイロがあるかというと、私は憶えていないのですが、サイロの隣りに厩舎があり、そこに羊を飼っていたそうです。考えれば、子供達の情緒安定や精神発育に動物の世話をすることは大変良いとされています。さらに、その読者の方から考えさせられる話を聞きました。
その方(女性)は、子供の頃から向陽学院の近くに住み、向陽学院の女子児童と一緒に遊んでいて、とても良くしてくれたそうです。私が感じていたように、ふつうの女の子達でした。あることを除けば…。それは、彼女達はある物を見ると豹変するのです。それは、女の子の制服姿です。制服姿の女の子を見ると、罵詈雑百や暴百を浴びせ騒ぐそうで、その方は、制服姿で登下校するのが嫌だったそうです。
彼女達が制服姿に反発する気持ちはわかります。なぜなら、彼女達には制服がありません。着ているのは青色の上下のジャージだけなのです。本当なら、自分も制服姿で学校に行っているはずなのに、と思い惨めな哀しい気持ちになるのでしょう。そして、その感情のコントロールができず、そのような態度になると思います。
現在、向陽学院は北広島市西の里に移転し、今も、女の子を保護し教育しています。
第四十遍 【煎餅工場】
約40年ほど前、この地域に煎餅工場がありました。場所は、川沿10条2丁目付近で、札幌信用金庫の裏の2本目の路地にありました。その工場の名前をいろいろ近くの住民の方に聞いたのですが、わからないとの返事でしたが、工場の隣りに従業員の寮兼倉庫があったことを思い出しました。どうして知っているかと言うと、私が子供の頃、そこに新聞を配達をしていたからです。その建物の登記簿を法務局で調べたところ、「北海道観光食品株式会社」と言う名前を見つけました。(現在は、会社も建物もありません)たぶん、この会社が工場を運営していたと思います。
なぜなら、煎餅工場は、定山渓のホテルに煎餅を納品していた事は、地域の住民の方か聞いているので、お土産用の煎餅を納品していたと思われ、名前と一致しますし、また、納品していた煎餅の名前は「鼻まがり煎餅」と言っていました。(形は楕円形)なぜ「鼻まがり」と言う名前がついているかと言うと、ご存知の通り、成熟した秋サケのオスは鼻が曲がっているので、俗称でこの時期のサケを「鼻まがり」と言いますが、この煎餅には、そのオスのサケの姿を形どった焼印が押してあったからです。いかにも、北海道のお土産らしくありませんか?子供の頃、20円ほどのお金を持って行くと、製品にならない割れた煎餅を袋一杯詰めてもらったことを良く憶えています。煎餅工場は昭和44年頃まで操業していたみたいです。
第四十一遍 【薬用けし】
郷土史によると、今日では、麻薬取締法によって考えられないのですが、昭和8年から9年にかけて「白花けし」がこの八垂別地域の特定農家によって栽培されていました。麻薬の輸入量が不足した為、道庁が近郊農家に栽培委託したもので、登録農家に許可証を発行して各戸la(アール)程度の規模で阿片を採取させたと言うことです。物が物ですから、厳重な管理の下に栽培されていたと郷土史には書いてあります。この当時の藻岩村の作付は昭和8年は二町一反で、収穫量、阿片2938瓦(グラムと読む)、売値100円。昭和9年は三反、収穫量、1138瓦、売値34円と当時の村勢一班に書いてあります。八垂別内では、四号の沢(北ノ沢)、五号の沢(中ノ沢)、八号の沢(南沢)の各沢で主に栽培されていたそうです。実際に栽培されていた脇屋又吉さんの話が郷土史に載っています。脇屋又吉さんの話によると、「花が散り、実が直径3~4センチの長円形に肥大した頃を見計らってナイフで傷をつけておくと粘っこい液汁が出てくる。これを毎朝竹ヘラで採取して竹の皮に移したものだが、眠くなってどうにもならなかった。値段は安くて、手間銭もなかった」と述べています。その液汁自体が既に麻薬であることを証明している貴重な談話です。それにしても、この地域で「けし」を栽培していた事があるとは正直言って驚きでした。まさか、自生してないでしょうね?
第四十二遍 【首塚】
「首塚」と聞くと、戦国時代の落ち武者の首を埋めた「首塚」を思い出しますが、北海道地方では、あまり馴染みがありません。(松前地方にはあるかもしれません)しかし、ここ八垂別地区には、確かに「首塚」があったのです。でも、前述のような落ち武者の首塚ではなく、「馬の首」の首塚です。場所は、旧向陽学院本校舎のすぐそばにありました。南沢の開基100周年記念誌の「拓土に生きる」(南沢農業実行組合著)の中で、麻田志信さんが次のように述べています。
「いつだったか忘れてしまったけど、自助園牧場(大正12年\昭和16年)の佐藤さんは、夏になると馬を放牧するわけ。佐藤さんの土地は広いからね。それで、馬を放して1週間に1回くらい見に来るわけ。その時、大きな親馬と子馬がいないわけ。なんぼ捜してもいないの。そんで、部落の人達と捜したら、沢の中に落ちて、子馬生きていたけど、親馬が死んでたわけさ。大きな馬だったからどうにもできないので、せめて、首だけでも持って帰るかと言う事になって、首を切って持ち帰り、佐藤さんはそれを埋め、そこに石碑立てて首塚になったと言うわけさ。」大変心打つ話だと思います。なぜなら、当時の八垂別の人達は親切で(馬をみんなで探す)、動物にも心をこめて接し、大事にしている事がよくわかるからです。しかし、今現在、この首塚は、二つに折れ、笹薮に隠れているそうです。どうにかならないものでしょうか?
第四十三遍 【軍艦岬】
「軍艦岬」が、何処にあるか?。また、南区には海がないのに、なぜ軍艦岬と呼ばれているのか、ご存知ですか?。「軍艦岬」は、南区と中央区との境界に、藻岩山の東側の稜線が豊平川に向かって急に切れ、安山岩が露出した崖の所を言います。(現在の住所で言うと、南31条西11丁目付近です)札幌市の中央方面から見ると藻岩山全体が巨大な軍艦に見え、東側の崖が軍艦の紬先(へさき)に似ているところから、誰言うとなく軍艦岬と言われるようになったと、藻岩下郷土史に書いてあります。また、その藻岩下郷土史によると、明治20年から明治25年にかけて、八垂別に山鼻屯田兵の給与地、追給地があり、当時山鼻村から八垂別の土地まで徒歩で開墾に出かけたそうです。夕方帰路に向った人たちは、軍艦岬が見えてくると「軍艦岬が見えてきた。もう家が近いぞ」と安心したという道標でもあったと言い伝えられていると書いてあります。今では、八垂別から帰る途中には、建物等に遮られて遠くから見ることは出来ません。しかし、崖そのものは、うっそうとした原生林で覆われ、昔の面影を残しています。軍艦岬のすぐそばに上山鼻神社があります。神社の起源は、明治24年、谷津彦作が神主代理をし、御幸通り三さ路入口に馬の無事、息災を記念して建立した馬霊神社(石碑)が始まりです。近くに馬頭観世音(石碑)もあり、当時の人は、いかに馬を大切していたかよくわかります。
第四十四遍 【藻岩発電所】
八垂別から札幌中心部に向うと、南33条西ll丁目の藻岩山の麓に藻岩発電所があります。藻岩発電所は、意外と古く昭和9年11月に着工、昭和11年9月22日に完成、営業運転開始となったと藻岩下郷土史に書いてあります。実は、この藻岩発電所は、この地域と関係ないようで、大いに関係あるのです。「拓土に生きる」によると、この発電所は水路式発電といわれ、ここで使われる水は、導水管を使って運ばれます。その導水管は、藻岩ダムから南沢、中ノ沢、北ノ沢を経由し藻岩発電所へ、さらに、藻岩浄水場へと全長12キロになります。この導水管の南沢の部分は、旧向陽学院の近くから南沢4条4丁目、4条3丁日、5条2丁目、東海大学の北を通り、中ノ沢へ至っています。当時の工事は現在とはずいぶん違い、ほとんど人力によるものでした。しかも、労働者は借金返済のための監禁された強制労働(タコ部屋)や朝鮮人労働者が大半でしたと書いてあります。昭和10年6月14日南沢のエ区で、落盤事故が発生し、死者5名、重軽傷者4名を出しました。このほかにも、トロッコにはさまれたり、鉄管の下敷きになったりして死んだ者は多数に上ります。この工事の犠牲者を悼む慰霊碑が、軍艦岬の近くにあります。私達がなにげなく使っている水や電気は、昔、このように働いていた尊い人命のおかげであることを、忘れてはいけないと思います。(文は「拓土に生きる」引用)
第四十五遍 【八垂別の農業<その1>】
八垂別の農業は、明治9年山鼻屯田兵村が設置され、明治20年から25年の間に屯田兵l77名
が八垂別の土地を給与をうけ、屯田兵が通い開墾していました。しかし、実際に開墾しに来ていたのは、千里藤太氏、森万蔵氏、猪狩織之進氏の3名だったそうで、ほとんどの未開地は、一般移民によって開拓されました。入植者(定住)が最も早いのは、本通(現在の川沿) 3名で、明治19年、兵藤繁治氏が一番最初で、次に佐藤治衛門氏が続き、明治35年までに21名が入植しています。5号の沢(中ノ沢)では、明治25年、瀬川忠次郎氏が入柏、明治35年までに11名、8号の沢(南沢)では、明治27年、袖森長八氏、生水猪之吉氏、榎本久松氏、工藤重作氏、阿部喜十郎氏、水口権三氏、坪井源四郎氏7名が入植、明治35年までに45名が、4号の沢(北ノ沢)では、明治30年、丸藤米蔵氏が入植、明治35年までに12名が入植しています。これらの入植者は、人跡未踏、巨木連なる原生林に挑み、開拓者精神を鼓舞し、辛酸辛苦に耐え、家族を慈しみ、粗食に甘んじながら、開拓の先駆者として道を切り開
き、八垂別の基礎を創ったのです。開拓者は開墾当時、木を切り笹を刈って焼き、すぐ蕎麦をまいて、秋に取り入れたそうです。今年も「昭和会」の手により、南沢の蕎麦が収穫されました。開拓者が食べた同じそばを食べながら、先人達の苦労に思いを馳せるのはいかがでしょうか。
第四十六遍 【八垂別の農業<その2>】
八垂別の初期の農業は、大変つらいものであったと郷土史に書いてあります。当時の常食は、粟(あわ)、黍(きび)、蕎麦(そば)、薯(いも)等で裸麦は上食でした。当時のことを、森恒将氏が次のように言っています。「昔は精米所もなく穀類はすべて自分達で臼でついて食べたものだ。祖父などは10時に寝て0時に起き、その日食べる分の麦つきをして3時になると馬仕事に出て働いたものだ。これがただ―つの現金収入であり、その現金収入のあまりない人は食べることができず、娘を売って生計をたてていた。」ドラマでしか見たことのない出来事ですが、実際にあったことなのです。また、佐藤つね氏によると、「開墾といえば、笹を刈って焼き、その後に菜種、小麦等を一面にまき、島田鍬で削って行くと畦になって生える。よくできたもので、5年くらいは肥料なしで作物は出来たが、沢山とれても売れない為に、自家用だけ作り、あとは外に出かけて働いて収入を得た。」
ほとんどの人は、農業だけでは食べて行くことが出来ず、外に働き(たぶん木の切り出し人夫だと思います)に行っていました。このように、当時のの開拓者達は、苦悩に耐えてこの地域を開墾してきたかと思うと、頭が下がります。
明治30年頃、土地貸与規則が改正になり、資本家・華族等の大地主が移住民を募集し、成功年限に至ると地所を分与する条件で団体入地をするようになりました。
第四十七遍 【八垂別の農業<その3>】
明治30年頃の団体入地は、郷里における生活の行き詰まり、水害、凶作等が動機となって、府県庁が北海道の現地調査を行なって移住させたものです。この頃の農作物は、主に麦・唐黍(きび)等でしたが、開拓時代は菜種も多く栽培され、石狩平野の菜種の花盛りは初夏の風物詩であったと言われていました。
明治30年代後半から40年にかけて、一時的な不況はありましたが、比較的好天に恵まれ、概して平年並み又は豊作だったそうです。明治41年以降は、冷害や山火事の頻発で離農する者も少くなかったと郷土史に書いてあります。大正2年、稲作は気候不順で、大変な不況でしたが、大正3年に始まった第一次世界大戦を契機として、翌年から農業に空前の好景気が訪れ、農作物の中でも輸出農産物である青婉豆、菜豆、馬鈴薯、澱粉、薄荷、亜麻などは相次いで暴騰し、いわゆる豆成金が続出するほど非常な活況を呈しました。しかし、大正7年には、物価が3倍にあがり、土地の栄養が消耗するなど、農業経営の将来に不安を感じる人も多くなりました。やがて、反動で世界的不況の波が押し寄せ、農家を襲いました。こうした不況を乗り切るため大正8年頃より、都市近郊の地の利を生かし罐菜栽培が盛んになり、傾斜の高台一帯はりんごが植栽され、南斜面の日照のよい地帯にはイチゴの栽培が行なわれました。またこの地区は、三方が山に囲まれた山菜の宝庫でした。
第四十八遍 【八垂別の農業<その4>】
三方が山に囲まれた八垂別は、山菜の宝庫でした。春には、ウド、ワラビ、フキが群生し、秋には山ぶどう、コクワ、キノコ等が採取れました。私もよく、子供の頃に、山ぶどうやコクワなどを取りに、藻南公園や裏山(昔、ぼんず山と呼んでいた山があった附近)に行ったものでした。きのこでは、落葉きのこが良く取れました。今はどうなのでしょうか?もう取れなくなったのでしょうか。そうだとすれば、残念な事です。また、そういった物が取れる自然豊かな地域にしたいものです。
話はそれましたが、しかし当時は、売るほど取れたので、朝取ったものを一反風呂敷に包んで背負い、市中まで6キロを徒歩で通い、道で売る「触れ売り」をすると結構な現金収入になったそうです。春から早く現金を稼ぐ事ができ、また、資本がかからないため一石二鳥で、半ば山菜取りを稼業としている人もいたそうです。これらの仕事は婦人の仕事とされてました。五号の沢(中ノ沢)と四号の沢(北ノ沢)境界に連なる山は、ウドがたくさん取れたので、今も通称「ウド山」と呼ばれて当時の名残りを留めていると郷土史に書いていますが、この事を知っている人がどれだけいるのでしょうか?もしかしたら、「ウド山」の存在自体知らない人がいるのではないでしょうか。今、八垂別で暮らしている皆様に、この八垂別地区の歴史を知らせる活動を、もっと、私共がやっていかなければと考えています。
第四十九遍 【八垂別の農業<その5>】
昭和初期の農業は、各種農作物価格が暴落した大変な時期だったそうです。この頃、中国及び東南アジアでは日本商品の排斥運動が次第に熾烈になり、このため農業経済面でも史上最悪の不況を招き、直接間接に受けた被害は深刻で、昭和元年以降は農作物価格は低落の一途を辿ったと郷土史書いてあります。また、昭和5年は豊作にもかかわらず、折りからの世界恐慌の影曹をもろに受け、「豊作飢饉」と言われるほど不況に拍車を掛けたそうです。さらに、昭和6年は、大正2年以来の異常低温で、農作物に多大な損害をもたらしました。郷土史の記録によると、水稲の被害が特にひどく、平均収穫の15%しか収穫できなかったそうです。ほかの農作物も10%~50%の減収に加え、価格も3分の一以下と言うほどの暴落でした。かくして、昭和初期は、大変な時期でしたが、農村、農会、農民が一致協力し、従来の営農体制を反省し、冷害を克服し、農業経済の安定、向上の諸対策を考え、且つ組織中心に改良指導を図るべく努力奨励したため、昭和5年山鼻村に農事実行組合が発足しました。(協同組合みたいなもの?)この頃の八垂別の作物は、薩菜(そさい:青物野菜のこと)、草花採種(種を取ること)、除虫菊などで、主に4号の沢(北ノ沢)、5号の沢(中ノ沢)が生産しており、イチゴは、4号の沢が早くから栽培していました。りんごは、8号の沢(南沢)が多く栽培していました。
第五十遍 【八垂別の農業<その5>】
昭和初期から戦時前にわたって、この当時の農業は国策によってかなり統制されていました。1つは、冷害克服対策として、堆肥増産の奨励、2つめは、畜産振興を推奨、併せて、養鶏、養豚、養兎(うさぎ)の飼育して副業の奨励、3つめは、農業栽培技術の向上でした。このような取り組みで、農業経営が軌道に乗りかけた矢先に、昭和12年7月慮溝橋事件がきっかけに支那事変が起こり、農業の経営も変化、色々なものを自給生産しなければいけなくなったそうです。特に堆肥は、大切だったようで、当時の世相を反映して「自給肥料増産かるた」なるものがあったそうです。例を二つ紹介すると、
「い・・・一致協力堆肥の増産」
「ろ:・論ではつかめぬ施せ堆肥」
このように、堆肥が当時の農業には不可欠だったことがよくわかります。昭和14年、化学肥料が統制になり、農家の経営実態に応じて配給されるようになりました。また、このころから、農家で飼っていた馬を軍用馬として徴発されるようになり、農家の人手不足は深刻になってきました。これにより、一番忙しい春先、小学校を14日以内の臨時休校に踏み切り、青年団は、戦没者農家の援農奉仕、農事実行組合は応召農家に対し、農耕馬や農機具持参で部落総動員の勤労奉仕をしたそうです。しかし、出征家族・戦没者家族にとって、援農は一時的な慰めになるものの、日常の農作業は過酷を極めたと郷土史に書いてあります。