八垂別のあゆみ・現在・未来への展望
2002年、豊平川小金湯近くの川原から発見された化石はジュゴンやマナティーの仲間で体長7mの大型海牛とわかり「サッポロカイギュウ」と名づけられ、今から820年前札幌がまだ海だったころ、クジラとともに泳ぎ回っていたことが分かりました。
藻岩山は250万年前噴火して形成され、藻南公園の崖は水中火山が噴出、熱い溶岩が急に冷やされた「水冷破岩」で出来ています。32,000年前、支笏湖地域の大噴火による「大火砕流」が石山軟石や丘陵をつくり、豊平川と域内の三つの川(北の沢・中の沢・南沢)により川沿の平担地が生まれました。
①八垂別のあけぼの、縄文から官林伐採まで
札幌に人が住みつき始めたのは、6千年前くらいと言われています。ハ垂別地域では北の沢、中の沢、南沢各川の上流、藻岩小学校付近、壁平川河畔から石器が発見され生活の様子が分かります。
明治3年、本願寺道路が山鼻~八垂別・札幌~尾去別(伊達市付近)開削に着手、翌4年完成。明治6年、八垂別地区の山林は「官林」となり、開拓使の指図により盛んに切り出されました。
②伐木・木の根・熊ざさと戦い開墾に当る
八垂別の土地は山鼻屯田兵の給与地になっていながら殆ど開墾されていませんでした。この地区に一番早く開墾に入ったのは明治19年(1886)兵藤繁治さんで、つぎは硬石山の石の切リ出しに入った佐藤治右エ門さんで、明治30年までには29戸の人々が開墾に入り明治45年まで、計156戸の開拓者が、伐木・木の根と戦い、熊ざさの根を切り払い苦難を乗リ越え開拓を進めました。
③八垂別の地名の由来、アイヌ語の「ハッタリベツ」から
八垂別は、アイヌ語の「ハッタリ・ペツ」から来たもので、「ハッタリ」は「渕」で、水の流れが深く集まっているところ、「ペツ」は「川」を表しています。
今とちがって豊平川はもっと西側山に近いところを流れておリ、今の国道も豊平川の中でした。ところどころに崖があり、深い渕を作り水量もずつと多く、渕に流れ込んだ川をアイヌの人はハッタリベツと呼び漢字に当てはめ「八垂別」となりました。
④馬車鉄道が走った、明治から大正・昭和へ
明治34年(1901)八垂別尋常小学校(現・藻岩小学校)が開校。42年札幌の建設資材「石山硬石」「石山軟石」を効率良く運ぶため、レールの上を馬が引く「馬車鉄道」が石山~札幌間を結び、人も乗れるようになりましたが、都心部を電車が開通、大正7年(1918)廃止され、昭和2年部落に電灯がつき、12年ラベンダー栽培が始まり、16年円山町札幌市編入により、八垂別は北の沢・中の沢・南沢・川沿と地名が変更になりました。
⑤食糧供給基地としての藻南地域のあゆみ
入楠者が相次ぎ、開拓が進むにつれ農業への挑戦が始まり、米づくリは明治の終わリころから行われ、リんご栽培は明治30年ころ薦手、昭和7年には1万本のりんごの木が実をつけ、「自助園牧場」が大正4年、乳牛、めん羊、豚馬鶏も飼育、八垂別酪農がスタート。バターを生産しましたが昭和16年閉鎖後、そばづくりが始まり、果樹・そばが2本柱となり、戦後ビニールハウス農業の先がけとなりました。
⑥環境整備とともに進む宅地化、人口は激増
戦後昭和23年、市営バスが藻岩小学校まで開通。26年藻南橋完成。32年藻岩観光道路、38年国道230号線開通。42年東海大学札幌分校開設(東海大四高校は38年)。44年新藻岩橋、45念五輪大橋開通。46年地下鉄南北線開通。47年区制施行、冬季札幌オリンピック開催。対岸の真駒内団地造成とともに藻南地区も団地化が進行、45年の間に人口は約12倍38,000人と且ざましい発展を遂げました。
⑦藻南商店街に学んだことと、未来への期待
藻南地域の人口は37,515人(2009.7.1)総消費規模は年間652億円(2009)のうち60歳以上189億円と想定されます。シニア層の余暇対応ビジネスの拡大が期待されます。
また年少人口に占める小•中学生の割合は8.23%、60~74歳は20.86% 、高齢者2.5人が1人の小・中学生の面倒を見られる事になります。(2009)「三世代交流」の場として空きスペースを活用した「地域の茶の間」づくりが進められていますが、過去に藻南では「旧道茶
屋」「ハ垂別」などのつどいのカフェオープンや、地域通貨「タリベ」による地域の課題解決へ向けての取組などを実施した経緯があります。高齢者のキャリアを「好縁」をキーワードに三世代交流に結びつける。またキャリアを活かした、スロ_ビジネスの展開など、対面販売の長所を生かした住民のニーズ、感性に応える商店街への期待は大きく膨らんで行きます。